四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



     冬の凪


    不意に。
    左の二の腕あたりがそりゃあ痛いことに気がついた。
    あまりに痛いものだから、
    それ以外の何にも考えることが出来なくなって。

      痛い痛い、痛い痛い。

    わたしの腕を、誰かが無理から持ってゆこうとしている。
    力に任せて引き千切り、
    どこかの遠くへ持ち去ろうとしている。

      後生だからやめておくれ。

    これは大切な腕なんだから。
    大事な大事なお人を命かけて守ると、
    そんな誓いを立てての六花を刻んだ腕なんだから。
    だから持ってかないでおくれな。
    あたしなんかがムキにならずとも、
    お強いお方だ、困りはしなかろうけれど。
    そんなご自分へばかり、痛みを集める不器用なお人。
    だから…だから、微力ながらも楯になりたい、
    あたしなんかじゃ滸がましいけど、精一杯護って差し上げたいと。
    そうと決めての墨を入れた、
    二度とは消せない、他言はないって誓いだってのに。


      ―― お願いだから、それだけは持ってかないでおくれ。
          あたしから、あのお人を奪り上げないでおくれ…。





  ◇  ◇  ◇



 不意な高熱を発して倒れてしまった七郎次。どうやらその左腕…義手の不具合からのことらしいと判り、ならば専門の治療が早急に必要だろうと、話は実に手早く運ばれて。彼らが世話になってもいる、様々な容体への機転が利く医師に診せるため、久蔵が志願しての虹雅渓までを運搬船にて踏破することと相成った。ただ向かうだけならば、途中で休む時間を考えて2日近くは費やす道程だったが、平八が電信にて連絡を入れての、向こうからもこちらへと向かってもらって、途中で落ち合うようにと段取りを組んだお陰様。荒野の果てという半分の旅程にて合流がかなった、頼もしい初老の医師と刀鍛冶の二人連れ。さっそくにもこちらのホバーへと乗り込んで来た医師殿が、抗性の検査に取り掛かり、手早く状態を見極めると、幾つも持参して来たアンプルの中から1本を選び出して。それはてきぱき、あっと言う間に投与してしまう手並みのよさよ。

 「よぉし。これでこれ以上の悪化はないぞ。」

 とりあえずの応急処置は施したから安心しなと、にんまり笑った医師殿の言葉に、
「…。」
 久蔵もまた、いつにないほどのあからさまに安堵の表情を浮かべると、その胸を撫で下ろしている模様。自分には専門外なこと、なれば誰ぞに任せてしまっての、あとは関わらぬ…というのが常であったはずだのに。手の尽くしようがないならないで、それも致し方がないと、速やかに納得出来た身であったはずなのに。
「…。」
 適切な処置を取ってもらえたという安堵感からだろう。さっきまでは息をするのさえ難儀だったほど、総身を堅く縛りつけていた並々ならぬ緊張が、いつの間にやらほどけているのに気がついた。七郎次の顔色はまだあまり変わらないながら、壊れものに接するようにしか触れなかった愛しい人の頬へ、いたわるように撫でてあげるようにという意識をして触れてみれば、
「ん…。」
 こちらの手の冷たさが心地よくってか。苦しげに寄っていた眉間の戒めが、心なしか柔らかくほどけたようにも見えて。
“…よかった。”
 彼が横になっている低い座席に寄り添うようにと向かい合い、衒うことなく、砂まみれの床へと直に座り込む。そうやって付き添うようにし、飽かず眺める態勢に入った細い背中を、どちらも小柄な初老殿二人、微笑ましげに眺めやったものの、
「さて。久蔵とか言ったな、お兄さん。」
 ざっかけなくて野放図ながらも腕はいい、闇医者の外科医師殿の方が、時折巻き起こる風にも飛ばされぬ、腰のあるお声をかけてくる。
「このまま、虹雅渓へと向かうことになるが構わねぇか?」
 彼らの来た方を、肩越しにちょいと振り返る医師殿であり、
「も少し様子を診たいし、義手のメンテナンスの必要もあろうから。」
 そっちを請け負った装具師も、虹雅渓に住まわっているという話。神無村へ戻ってしまっては、またまた往復の手間暇がかかるだけだろうとの説明をし、
「実はよ、出て来る前にあの“蛍屋”へも連絡を入れてあるんだ。」
 と、こちらは正宗殿が久蔵へ告げている。この七郎次とあの大店については、都へと挑んだあの決戦を前にして、あそこで落ち合った関係から、もう知ってもいた彼であり。彼らのホバーはそこから出立したほどで、
「女将さん、雪乃さんつったかな。あのお人も、装具師に連絡をつけの、受け入れの準備を整えのと、全てをお任せくださいと応じてくれて、心待ちにしているとよ。」
 ただ、こちらの都合ばかりを押しつけて一方的に計らってもいいことじゃ無しと、わざわざ受けるか否やかを訊いてくれている老師たちであり、
「…。」
 特に否を唱えることもなしと、久蔵も納得しての、無言のまま こくりと頷いて見せるばかり。そんな彼の様子に、
「よっし、話は付いたな。」
 正宗殿がうんうんと大仰なくらいに頷き、医師殿もくすすと苦笑った。そりゃあ寡黙で表情も薄い、だがだが、刀を持たせりゃかなりの練達。それこそ眉ひとつ動かすこともないままに屍の山を築くのだろう、恐るべき存在でもあろうにと、そんな腕のほどをしている青年だと、物腰からだけでも判るだけに。

 『よっぽどのこと、あの色白のお仲間さんが大切なんだねぇ。』

 心ここにあらずの態だったのは、疲れてもいようがそれのみならず。付き添って来たお仲間のこと以外には関心がない彼なのだと判って、それが…ある意味で微笑ましくて仕方がない。この若さで先の大戦に参戦したというのなら、しかもこうして生き残っている以上、刀しか知らず、殺戮が日常という、常軌を逸した育ちの“剣鬼”であるに違いなく。そんな男に心開かせた存在なだけに、さっきもついつい“おっ母様”と呼んでしまった医師殿だったし、

 『だが、ウチにいるキクの字やお嬢に言わせりゃあ、
  あのお人、
  勘兵衛さんに遺恨だか由縁だかがあってのついて来たって話だったがねぇ。』

 まま、そうは言っても実際にこんな微笑ましい図を見せられてはなぁと、刀鍛治殿もまた認めざるを得なかったというところか。医師殿だけが二人の傍らに居残り、正宗氏はホバーから降りての何やら作業を努めていたが、しばらくすると顔を覗かせ、
「ホバーは連結したからの。お前さんはもう運転しなくてもいい。」
「…。(頷)」
「少し先に砂風の入らねぇ岩洞がある。そこまで行ってから、装備の整理をしがてら一旦休憩としようや。」
「…。(頷)」
 後のことは彼ら“大おとなたち”に任せようということか。金髪白面の剣鬼殿、黙したまんまで ただただ七郎次の傍らにずっとついており、手がかからないには違いないと、やはり老師二人を苦笑させるばかりであった。





            ◇



 自らの正体を伏せたまま、先進の生活には不可欠な“蓄電筒”を黙々と作り出し。今時の権力の頂点に立ちかかっていた商人らに対しての唯一の抵抗勢力となり得ていた、そんな存在が“式杜人”と呼ばれる一族で。恐らくは…大戦中に大きな負傷をしたか、はたまた戦場に置き去られたことをでもいい機会として、軍から逃亡離脱したか。そのような人々が戦後のどさくさに爆破墜落した本丸に取り付き、その主機関から“蓄電筒”を生み出す技術を得て今に至る、つまりは、侍のこれもまた成れの果て…であるらしく。そんな彼らとは、少々縁のある神無村の侍たちで。そんなせいもあってか、荒野の端にて夜を明かしての翌日、人目につかぬようにと荒野から街へ入るのを避けての選んだコース、地下水系通過の禁足地経由という道程において、
「…あんまり警戒するこたねぇようだの。」
 速度を少々落としての進行と、そんな配慮をした上で、一応は警戒をしてみたものの、岩洞の天井から吊り下がっているばかりの彼らには、禁足地への侵入者へ対する排除の気配が一切ないままだった。そんな排斥攻撃が降って来なかったのは…もしやして。

 『我らのささやかな我儘である
  “ささやかな安泰”を約してくれればいいってだけのこと』

 例の“都”撃沈騒動の真相を知る、数少ない生き証人のうちの一角をなすのが彼らであり。誰が実行犯かを的確にあげつらい、勘兵衛を筆頭に神無村に雇われた侍たちを糾弾出来る立場にあると言えば言えるが、そんな侍たちへの手助けをした彼らでもあって、言わば立派な共犯者。そこまで言及した訳ではない、あくまでも穏健な言い回しにて、七郎次がこちらからの提言として言い置いたことがそのまま生きていて、
“それでの静観の構えなのだろうか。”
 無論、何かしら仕掛けて来れば来たで、大人しく甘んじるつもりはないと。大切な人を守るため、物騒な兵器もあちこちへ装備しているこの窟ごと、切り刻んでの埋めてでも対抗してやる…との心積もりから。背後へのみ、ちりちりと警戒心を高めていた久蔵だったりもしたところへと、

 【 助けは要りませぬか?】

 ホバーの船端間近い空中へ、すすす…っと天井から降りて来た一人がそんな声をかけて来た。降りて来たまま、つまりは逆さになったままというのは、対人作法で言えば無礼かもしれないが、
“何も手出しはしませんということか。”
 彼らはそれで1日を過ごす身だから、どっち向きでも支障はなかろうが、それでも…非武装ですよという、若しくは警戒してはいませんよという、彼らなりの“平生の構え”を強調してのことと思われて。
「いや。特には何もないが。」
 こちらさんも慌てて立ち上がるでもなく、後ろへ向けた運転用座席へ座ったまんま、率直な応じを返した医師殿へ、
【 そうですか。】
 黙っていては分かりにくい装備の中、何度か大きく頷いて見せてくれてから、
【 虹雅渓に着いてからでも、薬の類いに御用があればお言い付けを。】
 我ら、全てを自給自足で賄っておりますゆえ、虹雅渓在住のお医者様にも卸せるほど、大陸各地の薬品資材、取り揃えておりますので…と。静観の構えどころか、こちらの事情を何とはなくに察した上で、案じてくれてさえいるらしき様子が伺えて。言うだけ言うと、来たとき同様“すすす…っ”と音もなく、遥か頭上の天井へと戻ってしまい、どれが誰やら見分けもつかぬ中の一人へ埋もれてしまった使者殿で。
「相変わらず凄げぇもんだな、あの情報収集力はよ。」
 床に据え付けのソファータイプの後部座席より高さのある運転席に、足を引き込んでの胡座をかいていた老医師殿の言いようへ、
「?」
 それはどういうことかと、肩越しに振り返った久蔵が小首を傾げて見せれば、
「なに、儂もどっちかといやあ裏町世界の人間でな。商売上は勿論のこと、それ以外にも保身のためもあってのこと、いいこと悪いこと、情報には事欠かぬ身のはずだったが、それでもあんたらのことまでは知りもしなかった。」
 血相変えて神無村からすっ飛んで来た、片山殿に呼ばれるまではなと苦笑をし、
「それがどうだ。そん中のお一人が遠方の神無村で倒れたことを、当事者から呼ばれた儂らと同じレベルでもう知っておる。」
「…。」
 毛ほども動かぬ表情の中、それでも…ほのかに瞬きを仕掛かった睫毛の震えで、久蔵もまたハッとしたと酌んだ老医師殿、
「それほど周到な彼らが、攻撃してくるどころか向こうから寄って来たとはな。あんたら、もしかして気に入られてんのかも知れねぇな。」
 大した話じゃねぇかい、愉快愉快・呵呵呵の呵…と高哄するから、こちらさんも相変わらずの余裕っぷり。そんな結論を呈していただいたことへ、
「…。」
 先程仄かにそよいだ気色も宥められたか。切れ長で鋭角な紅色の瞳を心持ち緩め、再びおっ母様の容体の方へと集中し直した次男坊。投与された抗体が効いたか、あれほど高かった熱はあらかた引いており。そうとなれば身体そのものは頑丈な元“侍”だけに、その回復も早かろう。時々眉根が寄るのは、窮屈で揺れのひどい、およそ安静とは言い難い寝床に横たえられているせいで、楽しくはない夢に悩まされているからかも知れず。
「…。」
 いつもは引っつめに結っている髪を下ろしたことで、常のそれ以上に優しげな造作のいや映える美麗なお顔へと。うっとり見とれつつも…お揃いの“困り顔”をし続けの久蔵殿。走行風があたらぬようにという衝立
(ついたて)の役を続けつつ、時折 頬にこぼれる後れ毛を掻き上げてやったり、口元が乾けば水を染ませた綿花を添えてやったりと、彼だとて右腕は装具で首から吊ったままの身でありながら、甲斐甲斐しいお世話に徹しており、

 “ありゃあ、向こうへ着いたら兄ちゃんの腕の方も診といてやらにゃあな。”

 腕全部を覆っていたギプスを外したその上で、やっとおの稽古をしたって構わないとまでの太鼓判を押しはしたが、その腕をまだ吊ってはいることで、他の部分が偏った無理を強いられているやも知れない。そもそも“もう大丈夫”と完全包囲していたギプスを外したのだって、手厚い世話をしの細々したところへまで構いつけている七郎次の存在が常に視野にあったからというのも否めないことを思い出した医師殿、
“儂もヤキが回ったかの。”
 一頃の緊張感もなくなっての、人間が甘くなっちまっておるものかと、砂ぼこりを張りつけた首条をぐいぐいと擦って、しょっぱそうな苦笑を零したのでありました。







 結構な長さのある禁足地の水路を進んで、到達するは虹雅渓の最下層にあたる“癒しの里”の運河の外れ。地下水の伏流がこんなところから出ていることで清水に恵まれ、だからこそ、荒野の取っ掛かりという位置にありながらも虹雅渓は栄えたと言われてもおり。そんな水流を引き込んだ水路の最初の桟橋、夏場は屋形船を出しもするからと設けられた、木製の短い桟橋の上へ立ち。気を揉んでいることの現れ、しきりと両手を合わせては、白くて綺麗な指と指とをからめたり、小粋な縹色の小紋の袖を揉みしだいたりを繰り返していた女性があったが。
「…っ!」
 水路の向こうへ何かを見つけると、はっとその表情を弾かせて。店の方へは手招きつきの声を張り、そのままもどかしそうに…彼女ほどの年頃にははしたない、背伸びまでして、その何かがやって来るのを待ち構える。そうまでの落ち着かぬ態ではらはらと待ち構えていた運搬船を、店から出て来た男衆らが引き寄せの、もやいを繋いで固定したのを見計らい、
「久蔵様、正宗様。」
 それに医師殿へも声をかけたは、癒しの里でも指折り名代の料亭“蛍屋”を、女の細腕ひとつでもり立てている、女将の雪乃。黒々としたつややかな髪が濡れて見えるほど、絹の光沢もなめらかに、隙なくきりりと結い上げて。美しいうなじを長々みせた、衣紋の着付けの艶っぽさにも、水も漏らさぬ気配りが感じられる装いではあるけれど、
「…お前さん。」
 船の中、まだ意識の戻らない七郎次の姿が目に入ったその途端、思わず口からこぼれたそれなのだろう、呟くように口にした一言の…素の心のお声の、何とも切なげなそれであったことか。そのまま駆け寄りたかっただろうに、そこは我に返れたか、
「長の道行き、お疲れさまでございました。」
 同行の三人へと頭を下げて見せ、離れを用意しております、ささどうぞと。上陸を促す所作を見せる一方で。力自慢の店の者らに指図し、横たえられた七郎次を引き上げさせての運ばせる手際のよさよ。七郎次の義手を都合した技師にも連絡は取れておりますと、準備も万端に待ち構えていたらしく。至れり尽くせりなのが、
「さすがは女将だねぇ。」
 正宗には感心しきりな様子だったりし。
「ほれ、久の字もついて来な。」
 運ばれてった母上の去った先ばかりを見やってる、青い衣紋の若いのへ。幼い子供が相手のように、おいでおいでと手招きして見せる。彼が練達なのは百も承知。腕前では勝てぬことも分かっているが、それでも。例えばこの放心ぶりはどうだろうかと、その心情も酌んだ上での構いつけを衒いなくこなせる懐ろの尋の深さが、これ年の功というものであり。そして、
「…。」
 他の面々に比べると、接した時間も短くて、あまり親しいとも言えぬ間柄の老爺ではあるけれど。屈託のない、ざっかけないところを好もしいと思うのか、小さく目顔で頷いてから、ひらり、身軽に飛び立っての陸へと上がり。昼下がりのまったりと静かな里の中、彼らのみが静かな緊張感を負ったまま、豪奢な料亭の中庭へ身を隠すようにと歩みを進めたのであった。





 辺境の寒村である神無村とは、気候のみならず押し出しも違ってのこと。案内された離れとやらは、二間続きのその片方が畳を敷き詰めた広間に床の間や違い棚を据え、片やの壁には庭を一望出来るようにと大きな障子戸を二枚合わせた戸口を取ったという、数奇屋作りの寮を気取った贅沢な代物。暦の上ではとうに秋に入っていたものの、上層部の街から放出される様々な排熱による恩恵か、よほどの真冬にでもならぬ限りは蛍も飛び交う暖かい里なせいだろう。濡れ縁に向いたその戸前、陽あたりがいいこともあるのだろうが、板戸に代えずの障子戸のままでも十分に上着要らずで過ごせる案配であり。そんな暖かな部屋の中ほど。風がくるだろう窓側に寄せるでなくの、だが間接光で明るいあたりに敷かれた真綿の衾にくるまれて。依然として昏々と眠り続ける七郎次がいた。先の騒動の準備から、その後の隠匿生活までと数えれば、結構な月日を陽の下で立ち回っての過ごした彼だから。多少は陽焼けもしての、都会で得ていた垢抜けたところなぞすっかりと薄まってもいたはずが、
「…。」
 熱を出したことでの やつれから出た“翳り”が相殺してしまったか。純白の寝具や、仄かに漂うは柚子だろうか清々しい香や。小粋な掛軸や青々とした畳の匂い、何もかもが洗練されたこの部屋が、それは似
(そぐ)う住人として収まっており。一応の用心にと医師殿が容体を診、
「うん。後は意識が戻るのを待ちゃあいい。」
 何も心配は要らねぇよと、重ねての言葉添えをしたその時だ。

  「………ん。」

 長い息をついてのそれから、微かに喉を鳴らすような声を出した彼であり。意識が戻ったか、いやいやまだ朦朧としているものか。周囲に居合わせた皆が皆、はっとしての注視を向けて、
「…お前さん?」
 そぉっと雪乃が声をかけたのへ。確かに聞こえたのだろう、七郎次がふっとその瞼を上げたものだから。静謐に変わりはないながら、それでも室内の空気は ふわりと甘やかに軽やかに。安んじたそれへと温度を高めた。澄んだ光を集めた宝石のように、青くて透明な、それでいて深みがあって吸い込まれそうな表情をたたえた。そんな瞳が何度か瞬き、

 「…此処は?」

 心ここにあらずという態で、それでも周囲へ視線を巡らせる。最初は心許ない様子であったものが、ふと…意識が冴えたのだろうその刹那から、
「あ…。」
 何かを探しているような、何かを確かめたがっているような。思い詰めたような眸で急くように、辺りを見回し始めた彼であり。
「お前さん?」
 どうかしたのかい?どこか苦しいのかい?と、雪乃がかける声にも返事はないまま。その表情が怯えたような色合いになりかかるのへと気づいた久蔵が、これもまた思わずのこと、

 「…シチ。」

 静かに低く、声をかけると。こちらを見やって…やっとのこと、何にか慄
(おのの)いていた、ひどく切迫していた顔から、恐れの強ばりが立ち去った。優しいお顔を安堵に染めたそのままに、大儀そうにしながらも白い手を伸ばして来、

 「久蔵殿。」

 名前を呼ばれたのでは間違いなかろう。この自分をと望んでの手を延べている彼であり。雪乃の手前…と思いつつも、その手を取った久蔵で。
「俺は此処にいる。案ずるな。」
 出来ることなら両手がかりで挟み込んでやりたかったが、片腕がままならないのでは仕方がない。その分もと、そんな言いようで励ませば、和んだお顔でこっくりと頷いた七郎次が、ゆっくりとした口調にて、こんな言いようを紡ぎ始めた。

 「ああよかった。夢を見ていたのかと思いました。
  勘兵衛様に再会出来たのも、久蔵殿に逢えたのも、全部 夢だったのかと…。」

 だとしたら、そんな酷くて惨いことがあるものかと怖くなって。可笑しいですよねと、力なく微笑って見せるおっ母様へ、
「…もう大丈夫だから。」
 此処にいるから案ずるなと重ねて言い、まだ少し熱い手を握る。ええ、ええと納得したと頷いたそのまま、安堵を抱いて再びの眠りについた彼を見やりつつ、

 「…。」

 自分の手を求め、自分を見て安堵した七郎次だったことへ、ほのかに寂しげなお顔をした雪乃へも、気づいていた久蔵であり。まずは意識が戻ったことを何を置いても喜ぶべきだのに、5年を共に過ごした自分ではなく久蔵の方を安堵の的へと選んだことへ、かすかながらも傷ついた彼女だったに違いなく。そして、
「…。」
 そういう機微あっての気配の揺らぎ、表に出すまいとしても隠し切れなかったそれへと気づけた自分であったことも、久蔵には少々意外なことであり。進歩成長、熟練老獪、若しくは諦念からも、人はそれぞれ変わるものであるということ、誰もが言うし聞きもしたが。固い信念を持つとの自覚こそなかったものの、それでも自分はそれに当てはまらぬと思っての、高をくくっていたのにね。そんな“機微”なんてものを感じ取れるほど、柔らかくも繊細なところが自分の裡
(ウチ)にも出来つつあったこと。切ないような、飲み込み切れない歯痒いような想いとして、少々複雑な驚きとして受け止めていた久蔵だった。








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  *いやにのんびりとした更新で済みません。
   今回の話はこびでも何とはなく匂わせておりますが、
   今度はまたまた久蔵さんがちょぉっとした試練を実感いたします。
   こういうセンチメンタルな題材は、もしかすると初めて扱う身なもので、
   慎重に進めておりますこと、どうかご理解くださいまし。